我が家(の大人)は、歴史好きです。といっても幕末。同じ江戸時代でも、「赤穂浪士」って、討ち入りした話ね。程度の知識でした。
先日、泉岳寺のすぐ近くにあるアパホテルに宿泊したので、行ってみようか!という軽いノリで立ち寄りました。
泉岳寺といえば、赤穂義士の墓所があることで有名ですよね。
本記事では、境内のご紹介と、とても簡単に赤穂浪士の事件をまとめています。読んで頂ければ、おおかた泉岳寺と赤穂浪士については、とても簡単にご理解頂けることと存じます。
泉岳寺境内
⬇︎中門
地下鉄の泉岳寺駅を出て、緩やかな坂道を登るとまず見えてくるのがこちらの門です。
⬇︎門をくぐると、すぐにきれいな紫陽花が目に飛びこんできました。
雨の中、訪れたのは6月中旬。梅雨真っ只中です。
⬇︎お土産屋さん
高輪の地の、こんな観光地らしいレトロなお土産屋さんにほっこり。笑
⬇︎山門
鎌倉作りの立派な門ですね。
⬇︎本堂
大きな寺院ですよね。家族みんなでしっかり参拝しました。
⬇︎早速、サインの通り赤穂浪士のお墓に向かいます。
⬇︎左手に赤穂義士記念館。その前を通ってさらに墓所へと向かいます。
⬇︎赤穂義士の墓所
⬇︎浅野内匠頭のお墓
⬇︎大石内蔵助のお墓
⬇︎墓所に行くにはこんなバリアフリーの通路も完備されています。ベビーカーも車椅子もOKですね。
全体的にきれいに整備された寺院だと思いました。
我が家は、東京に越してきた年の義士祭に参加するため、泉岳寺を訪れたことがあります。
その時は大混雑でしたので、墓所までたどり着くのは困難と判断し、中門あたりをちらりと見て帰りました。当時4歳の長男連れでしたので。
今回は土曜日でしたが、外出自粛が解除されたばかりの雨の日でしたので、ほぼ、我が家の貸切状態でした。
本来なら、多くの参拝客が訪れる人気スポットだと思います。
泉岳寺の歴史
ここで泉岳寺を簡単にご紹介しておきます。
- 曹洞宗の寺院。本山は、福井県 永平寺(道元)と横浜鶴見 総持寺。
- 徳川家康が江戸城付近の外桜田に創設。
- 寛永の大火(1641年)で焼失。3代将軍家光により現在の高輪に移転。
- 第二次世界大戦によりほぼ焼失。現在のものは1953年に再建。
- 赤穂藩主浅野家の菩提寺
- 国指定史跡 赤穂47義士墓所
- 義士祭 (春:4月初旬、冬:12/14)
泉岳寺を訪ねるには欠かせない「赤穂浪士」物語
我が家は行き当たりばったり的な、泉岳寺立ち寄りでした。
折角行ったのに、「赤穂浪士の討ち入り」という歴史的事実があったことしか覚えていませんでしたので、後日、調べました。
「赤穂浪士」物語を簡単にまとめるならば、
主君が江戸城内で斬りつけ事件を起こしてしまった。
これに対する幕府の理不尽な裁きにより、主君のみが切腹で命を落としたことに不満を持った家臣が、仇(かたき)を打つ話。
敵の首を主君の墓前に備えて涙の報告後、仇討ちを行った家臣(47人)も切腹した。
というのが、全容です。
ここで登場人物を紹介します。
- 主君:浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)。赤穂藩主(兵庫県)=お殿様。
- 敵: 吉良上野介(きらこうずけのすけ)。江戸幕府で儀式や典礼を司る。
- 家臣:リーダーとして仇討ちを統率したのが大石内蔵助(おおいしくらのすけ)。
事件のポイントを解説します。
江戸城内での斬り付け事件
幕府が天皇の勅使(ちょくし)を迎える行事を行うために、江戸城に赴き任務遂行していた浅野が、その指導役の吉良に激怒し、斬りかかった殺人未遂事件。
斬りかかった理由は諸説あり、
- 吉良への賄賂が少なく、機嫌を損ねた吉良が、浅野に嘘を教えた
- 行事のやり方で揉めた
- 赤穂の塩田技術の情報が欲しい吉良に、浅野が教えなかったため、嫌がらせが始まった
- 吉良が浅野の奥さん(瑤泉院)に言い寄った
などの確執があったと言われていますが、本当の理由はわかっていないそうです。
ちなみに、この斬りつけ事件を起こした場所が、江戸城本丸の大廊下、かの有名な「松の廊下」ですね。
幕府の理不尽な裁き
当時は、喧嘩両成敗が解決のルールだったのにもかかわらず、吉良は一切のお咎めなし。
一方の浅野は即日切腹。赤穂浅野家はお家断絶でお城明け渡しという厳しい処罰。
斬りつけ事件はお昼頃なのに、その日の夕方には切腹というスピード処分。
刀を抜く行為は禁止のはずの江戸城内での出来事、また、天皇の勅使を迎える大事なイベントの当日であったことへの、5代将軍「徳川綱吉」の激怒ぶりが伺えますね。
この処分に赤穂藩が大きな不満を持ったのです。
討ち入りは最終手段
仇討ちリーダー大石の、元々の目標は、
- 浅野家の再興 ← 浪士となってしまった多く家臣を救える
- 吉良上野介の処分 ← 不公平の是正
でした。浅野家の面目を保つことですね。
しかし、浅野家の復興の願いが聞ききれられない結果となり、吉良家への討ち入りに方針を転換しました。
打ち首ではなく、切腹
47義士は、幕府の仇討ちのルール(届出制)に従わずに、討ち入りを行いましたが、切腹の沙汰。(打ち首は処罰にあたる)
死ぬことにはなるけど、あ〜良かったと、武士としては名誉の死となるのでしょうか。
一方の吉良家も、家督の領地没収と流罪(お預け)。
この討ち入りを擁護する世論も多く、それが考慮されたのですかね。
討ち入り直後の具体的な移動距離
(Googleマップより)
討ち入り場所の吉良邸(墨田区両国)から、浅野が眠る泉岳寺(港区高輪)までは、9.1km、徒歩で約2時間ですね。
参考まで、画像には、斬りつけ事件のあった江戸城(皇居)の場所も入れておきました。
現代でもほぼ一直線の道のりですので、当時ともそんなに変わらないのかなと推測します。
ここを、討ち入りを果たした47義士は、敵である吉良の首を担いで、主君である浅野が眠る泉岳寺に向かいました。
さぞかし、満足感に満ちた道中だったろうと思います。
「赤穂浪士」物語の略年表
- 斬りつけ事件:1701年3月14日
- 討ち入り:1702年12月14日(15日未明) ⬅︎ 泉岳寺の義士祭(冬)の日にち
- 47義士の切腹:1703年2月4日
主君が亡くなった斬りつけ事件から、1年半以上もの月日が経ってからの討ち入りです。
明け渡し等で赤穂藩がゴタゴタしたのであろうことと、綿密な討ち入り計画を練っていたのがわかりますね。
「赤穂浪士」物語視点で再び泉岳寺へ
「赤穂浪士」物語の概略を知ったところで、また泉岳寺の話に戻ります。
墓所をよく見てみると…、
(写真⬇︎ 左:大石、右:浅野)
47義士のお墓は、彼らの希望通り、君主 浅野の隣に配置されていいます。注目すべきは、第一の家臣 大石が、浅野のすぐ隣にくるように並べられているところです。
こういう配慮、泣けてきますよね…。私だけ?笑
とても悔しい思いをしてきた赤穂浪士たちは、死ぬことにはなってしまいましたが、人生最後は、目的達成の満足感に満ち、死後は君主の隣に葬られ、結果として、報われた結末を迎えられたのではないでしょうか。
人って、優しいと思いませんか?
そして、
なんとなく覚えていた「赤穂浪士」「浅野内匠頭」「大石内蔵助」のワードに引っ張られて、そのお墓を見れたー!と、以前混雑で見れなかっただけに、ミーハー的に満足していた我が家。
そんな我が家は、赤穂浪士による歴史のワンシーンや、その人物が生きていた証を感じられる大事な見どころ(下記)を、逃していたのです。
首洗い井戸
(泉岳寺公式サイトからお借りしました。)
仕留めた敵の首を、主君の墓前に供え報告する前に、洗ったと言われる首洗い井戸。
想像すると怖いですけどね。
血染めの梅、血染めの石
浅野が、預かりを受けた田中邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石。
主税(ちから)梅
大石主税 (大石内蔵助の長男、享年16歳)が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅。
大石内蔵助像
(泉岳寺公式サイトからお借りしました。)
中門を通り過ぎると、山門の右手前にあります。この像は見ましたよ。
歴史の中身を知ると、また訪れたくなりますね。泉岳寺に再訪して、ぜひ歴史トリップを楽しみたいと思います。
今度は、境内をしっかりチェックしてGO!ですね。
最後に
一連の「赤穂浪士」事件を知って…
人に頭を下げることができないとか、気が短い性格とも言われている浅野内匠頭。
度重なる嫌がらせに対する怒りが積もりに積もって、何かが引き金となりその場でカァーっとなった…。突発的な行動に出たように思えてなりません。
短気な人は損なのかな…と改めて思いました。
60歳の、そこそこの役職を持った吉良上野介と、藩主とは言え35歳の浅野内匠頭。
人生経験のところで、敵わなかったのかな。
泉岳寺 基本情報
〒108-0074 東京都港区高輪2-11-1
- TEL:03-3441-5560
- FAX:03-3441-2208
開閉門時間:
- 夏(4/1~9/30) 7:00~18:00
- 冬(10/1~3/31)7:00~17:00
アクセス:
- 泉岳寺駅(A2出口)から徒歩約1分
- 高輪ゲートウェイ駅から徒歩約7分
- 近隣にコインパーキングあり
なお、泉岳寺にお墓が買えるようです。わぁ!すごい!と思ってよく見たら、
- 永代使用料250万円〜 + 墓石代、とか
- 永代使用料、墓石代等コミコミで550万円(税抜)〜
という値段設定でした:(;゙゚'ω゚'):
一番小さい大きさで、ですよ。笑
以上
最後までお読みくださりありがとうございます🍀